从一山一宁赴日辨析日本人对元意识的变化

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论文字数:**** 论文编号:lw20237876 日期:2023-07-16 来源:论文网
本文是一篇日本留学论文,笔者认为着眼于元朝两次远征日本,特别是一山一宁禅师的渡日,分析了当时日本人对元意识的变化。日本人的对元意识很复杂,今后会更加具体的研究下去。

一 一山一寧渡日の歴史的背景

1.1 宋末元初における中日両国間の関係
唐の滅亡により、日中交渉が停止され、東アジア全体も重大な転換期を迎えた。中国では、宋は五代十国の分裂を終わらせて、漢民族による中国統一王朝を建立した。中日両国間の民間貿易はさらに増加し、日宋貿易が発展し始めた。宋から大量の宋銭が輸入されるとともに、日本の貨幣経済が発達し始めた。宋との貿易をきっかけに、多くの僧侶は新しい仏教や仏教経典をもって日本に赴き、また、禅宗も本格的に日本に伝え、当時の日本の文化に大きな影響を与えた。鎌倉幕府も宋との交流を続けて、禅僧を招いた。
1235 年(南宋・端平 2 年、嘉禎元年)、モンゴル軍は宋への侵攻を開始したから、宋の影響力が以前より衰えた。13 世紀後半、モンゴル帝国は宋と通商していた日本に服属を求めた。しかし、日本の鎌倉幕府は元朝廷に服従することを拒否し、元世祖フビライ(忽必烈)1は南宋と日本が連合して元に対抗することを防ぐため、一度目の日本遠征を発動した。
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1.2 モンゴル帝国の拡大
初めは、モンゴル高原に現れた遊牧民族の部族連合であったが、1206 年、モンゴリアを統一したテムジンは諸部族の指導者たちを集めてクリルタイ2を開き、モンゴル高原の全遊牧部族のハンに推され、「チンギス・ハン(成吉思汗)3」という尊称を奉られて、即位したチンギス・ハンはモンゴル帝国を樹立した。その後、チンギス・ハンは西夏にみずから遠征して、服属させた。1211 年、女真族が建てられた金と開戦して、1214 年にはその都を占領した。1218 年まで、モンゴル帝国は西はバルハシ湖まで拡大し、南にペルシア湾、西にカスピ海に達するイスラム王朝、ホラズム・シャー朝に接することとなった。さらに 1219年に大規模な西方遠征に出発し、中央アジアの中心都市サマルカンド、ブハラ、ウルゲンチをことごとく征服した。1227 年、チンギス・ハンは西夏への再出兵の陣中で病没し、廟号は太祖である。
1229 年、オゴデイ(窩闊台)1はモンゴル帝国第二代のハンとなった。1231 年、オゴデイは高麗にたいして侵攻を始まった。1232 年には、金を完全に滅ぼされた。さらにオゴデイはバトゥ(抜都)2に命じて、ヨーロッパへの遠征をしつづけて、ロシアまでのすべての遊牧民の世界を征服し、遠くポーランドやハンガリーまで進め、キリスト教世界に大きな脅威を与えた。1241 年、オゴデイが没したため、バトゥはモンゴルへ帰還して、モンゴルの支配はロシアまでとどまった。その後、モンゴル帝国は一時分裂の危機の陥った。モンゴル帝国第四代の皇帝モンケ(蒙哥)3の時には、次弟のフビライをチベット、雲南に派遣し大理国を征服した。1253 年、三弟のフレグ(旭烈兀)4を西アジア遠征に派遣した。1258年には、バクダードのアッバース朝を滅ぼした。1259 年(南宋・開慶元年、正嘉 3 年)、モンケは南宋に遠征した陣中で病没した。1260 年、モンゴル帝国は同時にフビライとアリクブケ(阿里不哥)5二人の皇帝が存在する南北分裂事態となった(すなわちモンゴル帝国帝位継承戦争)。1264 年にはフビライがこの内乱の勝利を収めて、実権を握った。1271 年(元・至元 8 年、文永 8 年)、フビライはモンゴル帝国の国号を「大元」に定めて、翌年には中都を大都と改め、一連の改革をした。このように、元は歴史上最強の征服王朝として、国を強くなるため侵攻を続けたから、日本への侵攻も企てた。
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二 一山一寧の渡日

2.1 一山一寧渡日の初期
1294 年、元の初代皇帝・フビライは死去した後、高麗での造船がようやく止めて、数度に持ち上がった日本の遠征計画も一段落した。1298 年(大徳 2 年、永仁 6 年)元成宗テムルは即位して、江浙省平章政事・也速答兒(イェスタル)がもう一度日本を征すことを願ったが、元成宗テムルは彼の進言を拒否して、交渉によって平和裏に進めようと使節を日本に派遣した。具体的には、以下のような記述がある。
成宗大徳二年、江浙省平章政事・也速答兒(イェスタル)乞用兵日本。帝曰、今非其時也、朕徐思之。三年、遣僧一山者、加妙慈弘濟大師、附商舶往使日本。(『元史』巻二百八、列傳第九十五、外夷一・日本國、P.103)
現代日本語訳:元成宗大徳二年、江浙省平章政事・也速答兒は元成宗テムルに申し上げて、日本に出兵したいと乞った。元成宗テムルは「今はその時ではない、考えさせてください」と制した。大徳三年、元成宗テムルは普陀僧一山一寧に妙慈弘濟大師の号を授かえ、商船に乗って日本に渡った。
実は、元成宗テムルは愚渓如智禅師に三度目の渡日を命じたが、彼は年老いて力が衰えたため断った。代わりに普陀山の宝陀観音禅寺の住持一山一寧禅師を推薦した。当時、日本では臨済宗の興隆期において、禅僧を尊敬する気風があったから、元成宗テムルは禅僧愚渓如智の推薦によって、一山一寧禅師に金襴の袈裟および「妙慈弘濟大師」の勅号を賜わって、入貢を督促する国使に任じた。1299 年、一山一寧と弟子石梁仁恭(せきりょうにんきょう)2、西澗子曇(せいかんしどん)1など一行五人は国書を携え、日本の商船に乗って日本に赴いた。この商船は荒海に乗り出し、高麗を経て博多に到着した後、大宰府に入った一山一寧禅師は元成宗テムルの国書を執権・北条貞時に奉呈した。この国書は、以下のようなものである。
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2.2宋地万人傑、本朝一国師
1315 年(延祐 2 年、正和 4 年)、一山一寧禅師は南禅寺に戻った情報を聞いて、多くの人は南禅寺に駆けつけ、禅道について伺った。1317 年、病気が重くなって、10 月に病床に伏せた。後宇多上皇はわざと南禅寺に行って亀山法皇の霊廟に泊まって、しきりに病状を尋ねた。9 月、一山一寧禅師は示寂して、享年が七十一歳であった。一山一寧禅師が示寂した後、後宇多上皇は南禅寺にやってきて、慌てて一山一寧禅師の寝室にみずから出向いた。虎関師錬(こかんしれん)1によって撰述されている一山一寧禅師の行記2によると、後宇多上皇は一山一寧禅師に国師の号を賜って、当時の門下侍郎六条有房(ろくじょうありふさ)3に勅命を下し、祭文を起草させた。さらに後宇多上皇はみずから賛語を撰し、一山一寧の生前の姿を画家に描かせ、頂相賛を書いて、一山一寧禅師に感心し尊敬することは詳しく記述した。つまり、後宇多上皇は一山一寧禅師を高く評価したのである。以下は、後宇多上皇の賛語について頂相賛を通じて考察してみよう。
朕曾聞師道風、思欲一覿徳儀。頃年下詔請来、補先皇聖跡南禅。遂獲酬夙志、神交道契、頓増法味、有得於中矣。師告以衰暮、屡乞帰休。朕嘆祖道微運、固留止焉、五載于今茲、法体違和、疾至弥留。臨期告別、唱寂於本山。末後全提、霊明天真、所謂無心道人大法主盟者也。称以国師、欲下報老師直示之的旨、旌中鷲嶺付属之金言、云尒。文保元年十月廿五日。一山国師門徒等(『一山國師妙慈弘濟大師語』(下巻)、pp.27-32)
現代日本語訳:朕はかつて先生の徳望を聞いたので、先生と面会したい。そして、近年は命令をくだして、先生を招いて南禅寺の住持の空席を補わせようとした。宿志を遂げた後、先生との見解が合うと思って、禅法を悟り、大いに受益した。しかしながら、先生は老いと病いを告げて、住持の職務を解いてほしい旨を上表した。朕はこれを許さなかって、五年を過ごして今この時にやって来て、先生が危篤に陥った。最後は、ここに示寂した。今、朕は先生のことを思い出して、声が耳元で聞こえ、姿が目に浮かぶようである。そして、国師の号を贈り、先生が直接に示せるの的旨に報いた。


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三 一山一寧渡日の成功の原因…………………23
3.1 元朝廷の対日政策の転換……………………………23
3.2 禅宗の影響……………………………24
四 一山一寧渡日の歴史的意義とその影響………………………28
4.1 元・日両国の緊張関係の緩和について………………………28
4.2 日本文化に対する影響……………………………29
五 一山一寧が当時日本人の対元意識に対する影響…………………………35
5.1 二度目の日本遠征前の日本人の対元意識……………………36
5.2 文永・弘安役の期間における日本人の対元意識………………………36

五 一山一寧が当時日本人の対元意識に対する影響

5.1 二度目の日本遠征前の日本人の対元意識
遣唐使の停止後、日本が大国に対して一定の距離をおく姿勢は、日本の外交方針になったと言えよう。元にたいしても例外なく、鎌倉幕府は一定の距離をとる姿勢によって、一定の独立性を保とうとする。元は、モンゴル人によって中国を征服した王朝であり、歴史上第一の少数民族王朝としてヨーロッパまでも領土を広めていた。アジア地域も同じ、1259年頃に、高麗がモンゴル帝国に降伏した後、高麗の隣国である日本もモンゴル帝国遠征の目標となった。
モンゴル帝国の国書が最初に日本に到着したのは、1268 年(元・至元 5 年、文永 5 年)であった。使者は国書を直接に日本執権者に伝えたいと希望したが、モンゴルの使者は日本に上陸するということは、鎌倉幕府にとって大変危険な状況であったから、大宰府の少弐1は使者を大宰府にとどめて、国書を鎌倉に送付した。この国書の中で、「上天」、「大蒙古国皇帝(元世祖フビライ)」、「小国」、「計王之軍臣」などの語を使って、日本にたいして軽蔑の念を抱いて、最後に「用兵」と武力で脅した。また、高麗を例にして、鎌倉幕府に臣下として服従させる念を表明した。新井孝重氏の『蒙古襲来』によると、南宋から渡日の禅僧がモンゴル帝国暴虐を進言して、幕府は不満を感じていた1。そして、幕府は最初の国書に対して返牒を送らなくて、その後元に送られた国書も無視した。1271 年に、趙良弼はモンゴル帝国の使節として日本に到着した後、鎌倉幕府に最後通牒を伝えた。主な内容は、次の通りであった。
度々雖有牒状、無返牒、此上以来十一月可為期、猶為無音者、可艤兵船、可有返牒。(『元史』巻二百八、列傳第九十五、外夷一・日本國、P.101)


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終わりに


以上、本論では、一山一寧禅師の渡日、また当時日本人の対元意識についての影響と関連して考察を行った。以下のようにまとめられると思う。
第一の部分では、一山一寧禅師渡日の歴史的背景を紹介した。13 世紀はじめに、チンギス・ハンは周辺の遊牧民族を統合してモンゴル帝国を成立した。13 世紀後半、モンゴル帝国は世界史上でもっとも大きな領土を持っている帝国となった。1271 年、元世祖フビライは元を国号と改めた。元は日本に服属を求めるので、日本への遠征を行った。元の二度目の日本遠征が失敗した後、元世祖フビライは再び日本侵攻準備をするとともに、王君治と愚渓如智禅師が使節として日本に派遣されて、到着しなかった。その後、元は内憂外患ごもごもいたるので、第三次日本侵攻計画を実行されなかった。元世祖はもう一度使節団を日本に派遣したが、今回も失敗に終わった。元・日両国間の対立を続けて、日本側は元軍再来を警戒していた。こうして、元成宗テムルは即位した後、一山一寧禅師を日本へ派遣した。
第二の部分では、三つの時期に分けて、一山一寧禅師の渡日や、在日の間の事跡についてまとめた。1299 年、元成宗テムルは愚渓如智禅師の推薦によって、普陀山観音寺の住持一山一寧禅師に妙慈弘濟大師の大師号を与え、日本へ派遣した。一山一寧は日本に到着した後、幕府に元の間諜と疑われ伊豆修禅寺に幽閉された。執権・北条貞時が幽閉を解いた後、一山一寧はあいついで建長寺、円覚寺、南禅寺などの住持を担当し、帰一寺、慈雲寺などの開山として仏法を伝え、日本において広い層に尊崇されるようになった。1317 年、一山一寧禅師は示寂して、「一山国師」の号を得て日本一国の師と仰がれた。
第三の部分では、一山一寧禅師渡日の成功の原因について分析をした。元の二度にわたる日本遠征が失敗した後、元世祖フビライは第三次日本侵攻計画を立てたが、負担が大きすぎるので元朝廷は日本侵攻計画を諦めた。これは一山一寧禅師渡日の成功にとってもっとも重要な一歩だと考えられる。当時の日本は禅宗の影響を受け、禅宗の興隆期にあって、禅師を尊敬していた。その上に鎮護国家と神国思想が誕生し、これらは一山一寧禅師渡日の成功の基本となるものである。また、日本における政治と文化の分離は一山一寧禅師渡日の成功に深く影響を与えたといえる。総じて、一山一寧禅師渡日の成功は偶然ではないと思われる。
第四の部分では、一山一寧禅師渡日の歴史的意義と日本文化に対する影響を論じた。一山一寧禅師は渡日した後、元・日両国間の関係は前より緩和され、両国は宗教を始め、文化、貿易の面までも交流し始めた。一山一寧禅師は日本に朱子の新注を伝え、日本朱子学の普及に貢献した。また、五山文学隆盛の基礎を築いて、日本禅林文学にも大きな影響を与えた。一山一寧は『一山國師妙慈弘濟大師語』とたくさんの墨蹟を残して、門下からすぐれた人材が輩出した。だから、一山一寧の渡日が日本文化に大きな影響を与えたといえよう。
参考文献(略)

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