第一章 序論
1.1 研究背景
十九世紀半ばから、列強の軍事侵略に伴い、西洋文化の輸入も中国伝統文化に衝撃をもたらし、中国社会は深刻な政治的、文化的そして社会的危機に直面していた。近代中国の先進的知識人たちはそのような激動の時代においては、目を覚まし、主動的に世界に注意を向け始め、西洋文化の学習の中、社会危機の解決方法を模索し始めてきた。そのような西洋に学ぶ風潮の中、西洋民主主義、自由主義などの新思想の影響を受け、封建的伝統思想に反抗するため、「人」から「女性」「児童」までの解放論を続々起こして、中国社会で広く流布した。そして、その時期には、近隣の日本は明治維新により急速に発展していき、近代中国の知識人に西洋を学ぶ近道とされ、近代中国社会に多大な影響を与えていた。
近代「女性の発見の第一人」と称される周作人(1885年~1967年)は近代中国五四新文化運動時期における代表的な思想啓蒙家の一人である。彼は民俗学、児童文学、新詩など様々な分野で先駆的な仕事をした。彼の女性論もその中の独特な一環であった。彼は1904年に執筆活動を始めてから、既に女性問題についての文章を書いていたが、特に五四新文化運動の時期から、女性解放問題に関する論述が多くなった。その後、五十年代の初め頃まで、女性問題を取り扱う文章を間断することなく書き続けた。そして、周作人が留日、日本人と結婚、対日協力及び生涯に渡っていた日本研究など色々日本と関係の深い経歴を持っていたため、彼に対する研究を行う時は、日本的要素を無視してはいけない。
本論は従来の研究を踏まえ、周作人が投獄される1945年前に書いた女性論を巡り、その時代背景や彼自身の生活体験を合わせて、彼の女性観における日本的要素を指摘し、そして、彼が如何に多元文化の受容を行っていたことを論じようと思う。
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1.2 研究方法
本稿はまず周作人の女性、性別論に関する史料と文献を収集、整理、分析し、これまでの先行研究を踏まえた上で、時系列に沿って、周作人が書いた女性論の内容と変遷を系統的に整理する。それから、周作人の経歴と当時の時代背景などを結び合わせ、日本との関りを一歩進んで総合的に分析して論述したい。さらに、比較分析法により、周作人が如何に接した日本文化をはじめの諸文化要素を主動的に取捨選択して受け入れたかということを究明してみたい。
中日戦争の時期、周作人が偽職に就任、日本側に協力したことで、その文学は戦後の長い年月にわたり「漢奸文芸」とされて、回避されていたゆえ、彼に関する研究も殆ど見えなかったともいえる。1980 年代に入って、学術界の雰囲気は自由になってきて、周作人に関する研究も増えてきた。最初は、周作人研究に関する論述は、政治を念頭においたものが主流となっていたが、政治の色が褪せた文学思想、文芸理念、民俗学などについての研究の動きが徐々に芽生えるようになった。代表的な研究者は鍾叔河、銭理群、舒蕪などが挙げられる。特に、その中には、鍾叔河は、編集者として 70 年代から周作人の文章を収集、整理して、『周作人文類編』(湖南文芸出版社 1998 年)、『周作人散文全集』(広西師範大学出版社 2009 年)、『周作人作品集』(岳麓書社 2019 年)などを出版した。銭理群は周作人に対して全面的かつ系統的な研究を行っていて、『周作人伝記』(北京十月文芸出版社 1990 年)、『周作人論』(上海人民出版社 1991 年)など色々な作品を出していて、周作人研究に貢献している。
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第二章 周作人の女性観の形成
2.1 周作人の生い立ち
周作人は 1885 年に浙江省紹興にある周家の次男として生まれ、子供頃から故郷の塾で伝統的な漢学を学び、八年間の中国伝統教育を受け、学術の雰囲気が溢れる環境の中で中国伝統文化の影響を深く受けた。そして、生活上には、彼は幼年時代には義理の祖母に世話をしてもらったことがあり、周作人の晩年の回想録によると、その時期に「祖母の悲痛的且つ普通なイメージ」は彼の「心中に映った女の一生の運命」[1]と重ね合わせ、歳月の流れとともに消え去らなく、より鮮やかになったと言える。その頃から、彼はすでに伝統社会中の婦女たちに同情の目線を投げはじめ、関心を寄せていたことがわかる。1901 年に南京にある洋式の江南水師堂に入学し、海軍管理を学んで、そこでの五年間の間、西洋の知識と先進的な思想に触れ、英語をも身につけていた。1904 年に、「アラビアン・ナイト」の英訳本を入手し、「アリババと四十人の強盗」を翻訳、『狭女奴』と改題して、処女作として、雑誌『女子世界』に連載してデビューした。
1906 年二十一歳の時に、海外留学試験に合格し、一時帰国した兄の魯迅と一緒に公費で渡日、来日後、清国留学生会館での日本語講座を1年受講し、法政大学特別予科で1年学んだ。1908 年、兄の魯迅や同郷の友人と共に章太炎に師事して国学文化講座を受けた。1909 年 3 月に、下宿の賄い婦であった羽太信子と結婚した。同年、4 月から立教大学に進学してギリシア語を専攻することにした。周作人の留日期間の最初の 3 年間は兄の魯迅と一緒に洋書を耽読して、欧米文学の翻訳作業をしていた。その時期の周作人は「日本語は学んでいたが、普段読むのは英文ばかり」[2](『我是猫』1936 年)であり、「魯迅と一緒に暮らしていて、何か用があれば兄が片付けてくれたので、私が話をする必要がなかった」といったような状況で、本格的な日本文化に接したことはほとんどなかった。1909 年に兄の魯迅が帰国し、それに周作人自身も結婚生活をはじめたことをきっかけにして、作人は「家庭内外の用事は自分で片付けねばならなくなり」[1](『学日本語続』1961 年)、教育がなく妻の羽太信子に理解して交流するため、実社会で使う日本語の勉強に本気で取り組んでいて、自分の趣味をも合わせて、狂言・川柳・落語など日本庶民文学や芸能にその関心を向けて、日本伝統文化と邂逅することになった。
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2.2 思想形成の国際的背景
2.21 第一波フェミニズムの展開
産業革命を迎えたイギリスやアメリカをはじめの欧米先進諸国には、市民革命と黒人差別撤廃運動に端を発し、ルソーやミルをはじめとする啓蒙思想家の天賦人権論に基づいた自由主義思想、マルクスやエンゲルスなどの社会主義思想を拠点とした近代人権思想と資本主義経済の発展と伴い、平等、自由、個人の自立などの価値観に目覚めた女性達は、世界の舞台に登場してきた。男性のみ「人間」・「市民」とされ、権利を与えることに対して抗議し、女性が男性と同じように「人間」・「市民」としての権利と並んで、財産権、教育の平等や性的自立、婚姻における男女の平等などについての要求を揚げ、議論を展開した。19 世紀半ばになると、フェミニズム運動はヨーロッパやアメリカにおいて盛んになっていった。
その中、『人権宣言』に対して 1791 年に『女性及び女性市民の権利宣言』(『女権宣言』)を発表し、人権宣言の男性中心を指摘し、女性は排除されている状態を批判したフランスの女性作家オランプ・ド・グージュ(1748 年~1793 年)や 1792 年に『女性の権利の擁護』を執筆したイギリス思想家 M・ウルストンクラフト(1759 年~1797 年)などが第一波フェミニズム運動における代表的な先駆者といえる。その時期の女性運動の先駆者たちは、積極的に教育、経済、政治的諸権利など広範囲に渡り、著書だけではなく、女性権利を訴える様々な団体・組織を形成し、後世の女権運動に多大な影響を与えた。その成果として、女性たちの長年間にわたり繰り広げた抗議や社会活動を通して、女性は中等教育以上の教育権、財産権、就職などに関する権利を獲得してき、そして参政権の獲得も十九世紀末のニュージーランドをはじめ、1902 年にはオーストラリア、1906 年のフィンランド、1917 年のロシア、1918 年のカナダ・ドイツ・英国と続き、次々と欧米諸国において認められた。[1]そういうような後世が称する第一波フェミニズムはフランスなどの欧米諸国から始め、世界へと広がっていき、アジア、アフリカなどにも強く影響を与えた。
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3.1 周作人の女性観の段階性 ------------------------------------ 22
3.2 民主と科学に基づいた女性本位主義 -------------------------- 26
3.3 家庭本位の女性啓蒙 ---------------------------------------- 28
第四章 周作人の女性観と日本文化------------------------------------ 33
4.1 周作人の女性観と明治大正期の文化 -------------------------- 34
4.1.1 東洋から来た女傑思想の影響---------------------------- 34
4.12 白樺派のヒューマンニズム思想と周作人の女性観---------- 37
第五章 結論------------------------------- 50
第四章 周作人の女性観における日本文化の受容
4.1 周作人の女性観と明治大正期の文化
第二章における周作人の女性観の形成背景と第三章の周作人の女性論の発展についての論述から見ると、明治維新を経て、間もなく近代化を成し遂げた隣国の日本は 19 世紀末から 20 世紀にかけて、「情適」、「費省」、「効速」などの背景により、数多くの中国の若者たちに西洋の学ぶ近道とされ、大いに注目を集められていたことが分かる。中国の知識人たちは日本を通じて西洋の先進的な文化や技術を学ぶことだけではなく、それと同時に、西洋文化を如何に取り扱う日本の経験及び日本の優れた文化なども、積極的に宣伝して、中国社会の革新を大いに促進したと言える。明治大正時期の日本は、第一次フェミニズムの波に乗り、西欧の女性解放論を受容しながら、日本の国情に基づいて、男女同権や女子教育などを巡った女性解放論争は繰り広げられてきた。日本におけるその言説や理論は様々の経路を通じて海を越えて中国に伝わり、当時の中国の女性解放に関する思想的変革を促していた。
4.1.1 東洋から来た女傑思想の影響
周作人の女性観が形成の第一段階(一九〇四~一九一一)、即ち、彼が南京の江南水師堂に入学してから、女学雑誌『女子世界』に『侠女奴』を投稿して文筆生活をはじめった一九〇四年から一九〇六年までの南京生活時代及び日本に留学していた時期には、周作人はまだ 20 代の若者で、独自の思想がまだ形成していなかったと言える。前文に述べたように、周作人の個人思想の「時流に従って基礎を築いた時期」である。
彼は南京へ来る前には、伝統的な漢学を学び、中国伝統教育を受け、中国伝統文化の影響を深く受けていた。南京へ来る前までは、彼は「尊王攘夷の思想」を持ち、「拳匪が決起した時に田舎で一人の“洋口子(せいようじん)”が“破脚骨(ごろつき)”に銅盆帽(どうのヘルメット)を打ち落とされたと聞いて、甚だ愉快で、日記に書き込んだ」[1](周作人『元旦試筆』1925 年)。その頃は、周作人が娯園の女たちや祖母に関する回想録によると、彼は中国伝統封建社会における婦女の悲惨な待遇に、深く関心と同情を寄せていた。しかし、長年間中国伝統的教育を受けていた彼自身はまだ子供で、その現象を掘り下げて、「婦女解放」などの面から深く考えることはまだなかったと思う。
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第五章 結論
19 世紀末 20 世紀初、列強の侵入と西洋・日本からの民主科学思想と文化の広がりに従い、中国社会においては様々な革新運動が起きはじめた。時代の波に乗って、女性解放運動も徐々に中国において芽生えてきた。その背景の下、幼い頃から封建社会において差別していた女性の運命に深い同情を寄せていた周作人は生涯をかけて、女性問題に関心を寄せ、それに関する文章を書き続けた。特に五四新文化運動の時期から、女性解放運動の先端に立って呼び掛けていた女性論は、近代中国社会に大きな影響を与えた。
周作人の女性観の内容と変遷については、本稿の考察により、彼は留日前、「女傑」を唱えていたが、留日後、多様な文化や思想を接し、段々独自の民主と科学に基づいた「女性本位主義」の女性観を確立してきた。後期には、中国の厳しい社会状況に向かって、依然として「女性本位主義」の立場に立っていたが、主に家庭内の女性啓蒙を巡って提唱するようになったことが分かった。 そして、留日、日本人の女性と結婚、対日協力及び生涯に渡った日本研究など日本と深い関りを持っていた周作人の女性観の変遷と発展には、確かに日本的要素を受容していたことを分析して明らかにした。
留日する前、周作人の初期の「女傑賛美」の女性論は、日本人が和訳した文書や辞典を参考したほか、その「女傑」の女性像はもともと日本に由来したものから、日本に流亡していた梁啓超らの影響により取り受け、間接的に日本明治期文化要素の影響を受けたことが分かった。
留日後、周作人が日本文化を身近に接し、帰国後も引き続き関心を持っていたことは、その女性論から伺えることができることを指摘した。明治大正期の日本文化要素としては、白樺派のヒューマンニズムと与謝野晶子の女性論の影響が特に目だったから分析を行った。周作人は武者小路実篤のヒューマンニズムから独自の「個人主義的人間本位主義」を出し、そのもとで、女性問題には、更に「女性本位主義」を唱えていた。もう一方、与謝野晶子の評論集を耽読し、「貞操」・「性道徳」・「常識」など与謝野の提唱に感銘を受け、自らの女性論の中に引用して、自分の考えを代弁した。
参考文献(略)