第一章、失地体験、傷跡と思考:過激的抗日の立場の形成――『生活週刊』時代(1931 年 4 月-1933 年 6 月)
第一節、「知日」の起源――少年時代と東北生活
1908 年 11 月 8 日、陶亢徳は浙江省紹興市陶堰鎮のある店員家庭に生まれた。少年時代に家庭が困窮していたため、彼はわずか私塾に二年通ったことしかなく、その後に丁稚奉公をせざるを得なかった。このような幼年時代と家庭背景は、賢い、有能、固執、勤勉、計算力と計画性が強いといった陶の性格を育成した①。正規の教育を受けていないにもかかわらず、陶は幼い頃から文学に夢中であった。仕事の合間に夜更かしして、作文を練習し、雑誌社に投稿し続けた。1920 年代では、合計小説 70 篇余りを創り出した。そこから、彼の初期の勤勉さが見え透くのであろう。1929 年になり、陶の文章の技巧がますます成熟しており、小説で生計を立てられるのみならず、『紅玫瑰』雑誌に契約作家として任用された。1929 年 11 月、陶は仕事を辞め、東呉大学の朱雯・周新・邵宗漢らとともに蘇州で『白華』という文学誌を創刊した。編集生涯のデビューであったが、残念ながら売上不振のため、第 8 期までで休刊となり、陶もそれによって負債を負った。
1920 年代は陶亢徳の小説時代と呼ぶことができる。同時期の彼は、日本と何の接点もなく、対日認識も言うまでもなく浅薄だった。しかし 1930 年に劇的な変化が発生した。1930 年の春節、雑誌経営が挫折した陶亢徳は父に紹興の実家へ呼び戻された。ちょうどある瀋陽で働く従兄が紹興に帰省したので、陶の父は陶を春節後に従兄に連れて、東北へ仕事を探しに行かせようとした。
1930 年初、陶亢徳は従兄と瀋陽に来た。従兄は遼寧省財政庁の科長であり、役所の仕事を探してあげると陶に約束した。長い就職待ちの生活では、陶は退屈な日々を過ごしていたため、東北社会の様々な様子を観察する機会ができ、そこに遍在している日本の要素におのずから気付いた。1931 年 3 月、新聞を読んでいる陶は偶然に『生活週刊』の広告を見た。それは当時中国で有名な時事・社会類の雑誌であり、編集長は鄒韜奮。そこで、陶は試してみようという考えで、同誌に満鉄(南満州鉄道会社)に関する通信を投稿した。意外なことに、その文章はすぐ鄒韜奮に認められた。手厚い原稿料のほかに、鄒は返信の中で、こういう題材の通信をたくさん書いてもらいたいと陶を励ました。陶の知日の情熱もそれによって大いにそそられた。
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第二節、「知日」の初体験――日本の東北植民に対する認識
一、通信から見る陶亢徳の知日活動
1 年 6 カ月の東北生活では、陶亢徳の知日活動はおおむね受動的な「見聞」から能動的な「考察」へと進化してきた。彼の最初の通信である「侵略東省的大本營」は、『生活週刊』第 6 巻第 18 号(1931 年 4 月 25 日)に発表されており、日営の南満鉄道が中国営の鉄道に勝るところを簡単に述べ、それに充分に注意すべきだと指摘したものである。この時には陶亢徳の知日活動はまだ個人的な見聞というレベルにとどまっており、資料の引用を知らないため、認識が広さと深さに欠けていたのである。そこでその後の長い間、彼の投稿は再び『生活週刊』に採用されなかった。
投稿が冷遇されていた間、陶亢徳はこれで知日をやめるどころか、逆にさらに積極的になった。日本の東北植民に関する資料を多く調べ、しかも日本語を独学し始めた。第 2 篇の通信を発表したとき(1931 年 7 月 11 日)に至って、彼の対日認識はすでに深くて洞察的なものになってきた。例えば、日本が東北農地を不法占拠する問題を論ずるとき、文章の警戒的意味を高めるため、日本政府の公式文書を引用していた。そして、東北駐在の日本警察問題を論ずるとき、東北の日本活動史について考証した。そこから、このときの陶亢徳の知日活動は、受動的な見聞から能動的な考察へと進化し、日本側のデータや報道をうまく博引傍証できるようになったとわかる。陶の日本語独学の効果が顕著で、知日の手段が多様化し、そして対日認識も深まっていくことが証明されてくる。第 2 篇の通信から、彼の投稿はますます頻繁に『生活週刊』に採用され、やがて同誌に特別通信員として招かれた。
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第二章、過激から理性へ:自由主義への転向 ――『論語』時代(1933 年 10 月-1937 年 7 月)
第一節、『論語』時代の知日活動の概況と特徴
この時期において、陶の書いた抗日に関する文章は明らかな減少傾向にある。その主な原因は、彼の仕事の中心は政治評論員から文芸雑誌の編集長になったからである。1933 年 12 月に『生活週刊』が停刊した後、陶は『人言周刊』という別の雑誌で政論コラム「望遠鏡与顕微鏡」を続けて執筆していた。文章のスタイルや内容は『生活週刊』時代とほぼ同じであったが、その執筆は半年ほどしか続いていなかった。『論語』を引き継いだ後、陶は雑誌運営に没頭し、たまには時事について雑感っぽい見解を発表することもある。『生活週刊』時代の真剣さには及ばないが、文章に鋭い観点もかなり出た。しかし全体からみれば、この時期に陶の立場は微妙に変化していた。それは次の 2 つの側面に反映されている。
一、政治的立場の転向
1932 年から 1936 年にかけて、上海を中心に、中国雑誌界は空前の繁栄期を迎え、「雑誌ブーム」が現れた①。そのうち、小品文と論語派の作家は新たに登場した文壇勢力であり、そして陶亢徳はそのリーダーのような一人であった。陶はまず編集長として林語堂の『論語』『人間世』雑誌に加入し、さらに林と共同出資して『宇宙風』雑誌を創刊した。陶と林の関係は非常に密接であった。陶は林の文学理念に傾倒し、編集活動でその理念を大いに発揚しようとしていた。陶と林との協力経営のもとに、『論語』『人間世』『宇宙風』は周作人・章克標・老舎など多くの論語派作家の舞台となり、上海で大いに異彩を放っていた。
成功を収めたが、論語派への批判は絶えなかった。「ユーモア・のどか(幽默閑适)」な小品文を大いに提唱し、文学は政治と距離を置くべきだと主張した論語派は、民族や階級の矛盾が鋭くなっていく三十年代前半に、魯迅や郭沫若ら多くの左翼作家から厳しい批判を受けた②。その批判に陶は非常に不快であった。ともすれば些細なことを政治的問題として取り上げたり、一斉に立ち上がり批判対象を攻撃する左翼のやりかたに、陶は反感を持っていた。彼は政治から距離を置こうとする論語派の文学的主張を繰り返して弁解し、左翼文人からの批判への不満を何度も発表していた。一方、文壇での「国防文学」や「民族革命戦争の大衆文学」などの論争に対し、彼はさらに興味が薄く、それは内紛であり、「感情的な争い」であると考えていた。陶の政治的立場が『生活週刊』時代の左翼から自由主義へと変化していくことも、この時期から始まったのである。
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第二節、日本語学習と知日
一、訳書から見る陶亢徳の日本語能力
1933 年 9 月、陶は鶴見佑輔の『欧米大陸遊記』の一部を『莫斯科·柏林·羅馬』に翻訳して出版した。それも彼の最初の訳書である。このような日本作家が西洋情緒を紹介する著作を選んだのは、陶は日本語しか知らないせいもあり、また「日本を通じて世界を知る」という考えがあったせいもあるのであろう。当時の批評家は、彼の訳文についてこう評価している。「訳文については、日本語ができないので何も言えないが、文字において不自然な感じがなく、なかなか悪くないと言えるだろう。(关于译笔,因为自己不懂日文,无话可説,但读了并无“隔靴搔痒”之感,也就堪称“还不差”吧!)①」そこからみれば、陶亢徳の日本語の読解力と翻訳力はすでに熟練していた。訳文は優美だとは言えないが、独学の学習者にとってはかなりあり難いものである。
二、魯迅との文通から見る陶亢徳の日本語学習
2013 年 11 月の中国嘉徳国際オークションで、魯迅が 1934 年 6 月 8 日に陶亢徳宛の手書きの手紙が 655.5 万人民元という高値で落札された②。その件はメディアのさまざまな報道だけでなく、中国文壇での「陶亢徳研究ブーム」をも引き起こした。手紙の内容は、まさに魯迅が陶亢徳に日本語学習を指導したことであった。魯迅の陶宛手紙は全 19 通で、その中の 4 通は日本文芸や日本語学習に関係あるである。以下は、この 4 通を陶亢徳の回想録に結び付けて、陶の知日の状況を側面から説明したい。
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第三章、「戦いを聞けば喜ぶ」:戦争構想と日本観――全面戦争初期(1937 年 7 月-1939年 1 月)...............................55
第一節、感情の転換点――「戦いを聞けば喜ぶ」........................... 55
第二節、対日認識のらせん型上昇........................... 58
第四章、「抗戦とは関係の持たない文章」について:「孤島」生態における行動の選択、文学観および対日認識――「孤島」時代(1939 年 1 月-1941 年 12 月)71
第一節、陶亢徳の上海回帰について............................ 71
一、上海から香港へ........................................... 72
二、香港から上海へ................................ 73
第五章、転向の真実と虚妄:自己逃避としての知日――淪陥時代(1941 年 12 月-1945月 8 月)................................82
第一節、「忠」と「降」とのジレンマ――陶亢徳の変節について.............. 82
一、上海残留の原因............................................. 82
二、上海全面陥落後の行動選択.................................. 85
第五章、転向の真実と虚妄:自己逃避としての知日 ――淪陥時代(1941 年 12 月-1945 月 8 月)
第一節、「忠」と「降」とのジレンマ――陶亢徳の変節について
一、上海残留の原因
1941 年 12 月 8 日、太平洋戦争が勃発し、日本軍が上海の共同租界を占領した。日本軍の封鎖のもとで、上海の数多くの出版社・雑誌・新聞が休業を余儀なくされ、四年に渡る「孤島」時代が終焉を迎えた。上海にいたすべての文化人と同じように、陶が急に「忠」と「降」とのジレンマに追い詰められた。だがその後の行動選択を検討する前に、筆者はもう一つの問題に注目したい。それは陶がなぜ後方に遷らずに上海に残留したのかということである。そのために、まず第二次上海事変が勃発して以来の陶の行動の軌跡を振り返ってみたい。
1937 年 8 月、第二次上海事変が勃発した。当時に上海にいた陶は、宇宙風社とともに後方へ遷ることにした。行き先については、最初に武漢か香港かと躊躇していたが、香港の紙価がわりに安いため、彼が後者を選んだ。1938 年 2 月、陶は香港に着き、そこで簡又文と抗日派雑誌『大風』を創刊した。5 月、陶は『大風』編集部を離脱し、宇宙風社とともに広州へ向かった。そして『宇宙風』は間もなく広州で復刊した。
陶は、一文化人として淪陥区に滞在する危険性と銃後へ遷る必要性をはっきりと認識している。それは彼が周作人に対する態度によってもわかる。北平(北京の旧名)に住んでいる周作人の安否を非常に心配し、周に南へ避難するように何度も手紙を書いて勧めた①。陶亢徳自身も友人に銃後へと誘われたことがある。老舎に武漢の全国抗敵文芸協会の創立大会に誘われたが②、彼は結局それに応じなかった。
1938 年 10 月、広州陥落につれて、宇宙風社も広州から桂林に移った。しかし種々の理由で、陶は同僚とともに桂林へ移動するのではなく、上海へ戻り、新たな事業を切り開こうとしていた。1939 年 1 月、陶は「孤島」上海に戻り、雑誌『宇宙風乙刊』『天下事』を創刊し、また出版社の亢徳書房をも創設した。上海に到着した当初、陶は重慶へ行く気があったようだが、上海での事業が安定していくにつれて、彼は結局行かなかった③。1941 年、陶は再び香港に赴き、『天下事』の香港号を創刊した。当時、『天下事上海刊』『天下事香港刊』『天下文章』『人世間』および『読者文摘』は、「上海と香港の五大雑誌」と呼ばれていたが④、前の三誌および『人世間』の第 1 ・2期の編集長はいずれも陶であり、人気の止まらない『宇宙風乙刊』はさらに言うまでもなかった。雑誌のほか、亢徳書房の出版事業も、香港に支社を開設しているほど活発的であった。このことから見て、「孤島」時代の陶は編集事業においてかなり成功を収めたので、上海を離れる理由はなかったのであろう。
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結論
日本敗戦後、陶亢徳は「文化漢奸」という罪で入獄した。初審で有期徒刑三年、公職追放三年と処せられたが、上訴によって 1 年 3 か月の刑、二年間執行猶予と減刑され、1947 年 9 月 16 日に釈放された。出獄後、陶亢徳は十何年以来の日本語の蔵書を思い切って処分した①。このことは、陶は漢奸とした恥の過去と断絶しようとした決意と、彼の十何年以来の刻苦した知日活動の終焉とも意味している。
陶亢徳が十四年に渡る抗日戦争における日本観及び対日立場の変化を完全に示した上で、これからは抗日派文化人から文化漢奸への「転向メカニズム」を討論したい。
一、左翼文人から自由主義文人への「転向」
陶亢徳の身では、「転向」が三回発生したことがある。まず第一回は、林語堂の影響を受け、その政治的立場と文学観が左翼から自由主義へと変化していくことである。陶亢徳の対日認識は、左翼文化人の鄒韜奮との付き合いより始まったのである。二人が共同で働いているうちに、陶の思想は漸次左翼化していった。その表現として、対日立場では、陶は過激的に抗日を呼びかけ、宥和派と保守派を激しく攻撃する。政治的立場では、共産党を同情、帝国主義・封建主義・官僚主義を反対、西洋列強の調停に頼って中日間の危機を解決することを反対しており、そして文学観では、抗日における文学の責任を強調、文学は政治性と社会性を備えるべきだと認めていた。
しかし、林語堂が鄒韜奮に取って代わり、陶亢徳と最も関係が密接な文化人になってから、陶の思想はますます自由主義へ傾き始めた。対日立場において、彼は昔の「過激的抗日」から「理性的知日」へ変化し、全体国民の抗日意識の覚醒および知識層の知日に期待を寄せていた。それがために、彼は大ヒットした『宇宙風・日本与日本人特集』を編集して出版した。文学観の面では、陶は論語派の自由主義的な文学観を認め、ユーモア・のどか(幽默、闲适)な「性霊文学」を提唱、政治先導の文壇論争に無関心を示し、文学の政治的価値の介入を反対していた。政治的立場において、陶亢徳は大衆運動に興味が薄く、そして論語派がよく左翼から批判されていたため、鄒韜奮・郭沫若らの左翼文人との関係も徐々に疎遠になっていた。こういった自由主義的な心理的構造は、抗戦が終わるまでずっと陶亢徳の思想に定着していた。
参考文献(略)